映画『ドライブ・マイ・カー』感想
ハードルを下げる手法をとる映画というものがある。例えば岩井俊二はその名手で、ほとんどの作品でその手法を使っているのではないか?
例えば、『リップヴァンウィンクルの花嫁』の綾野剛はどこかわざとらしい演技をしているが、それは彼が作中で実際に人を騙すために演技をしているからだと説明がつく。また、岩井俊二はホームビデオ風の映像を、作中によく挿入するが、これも「映画的でない演技・演出」を映画のなかに組み込む手法の一つである。
このように、映画的にはアウトとみなされる演技や演出(身も蓋もない言い方をすれば、下手にみえる演技や演出)でも、作中でそうである理由を示すことで、作品のリアリティを損ねないようにする手法のことを、私は「ハードルを下げる手法」と呼んでいる。
岩井俊二の他にも、例えば『アヒルと鴨のコインロッカー』の瑛太もおかしな演技をしてるが、こちらも彼がおかしな喋り方をしている理由が作中で明かされる(さらに、このことが物語の重要な謎解きの鍵となる)。
こうした手法には好き嫌いがあるかもしれないが、少なくとも私は、どうも映画の作り手からおちょくられたり、騙されたりしているような気がして、この手法自体をあまり好きとはいえない。
「いまあなたは下手な演技だと思ったでしょう。いやいや違うんです。この演出にはちゃんと理由があるんですから、そこを見落としてもらっちゃ困ります。さあ今から彼がぎこちない演技をしている理由が明かされますよ」と、監督に隣に張りついて言われているような気分にさせられるからだ。
フィクションの鑑賞中に、作品のリアリティの多寡について考えるというのは、一般的にはあまりよい状態とはいえないだろう。作品に没頭していれば、そんなことを考える暇はないからだ。ただ単に「リアリティがあるな」とか「リアリティがないな」とか感じているだけなら、まだ巻き直しは可能かもしれない。しかし、この「ハードルを下げる手法」のようなものを使われると、映画の作り手の作為をより強く感じてしまい、「私 対 作り手」の構図を否応なく意識させられ、どうも難癖をつけるような気分で映画を観ることになってしまうのである。
とはいえ、こうした手法を堂々と使ってくる使い手(岩井俊二など)は、何故か作家として優秀なことが多く、作品や監督自体は全く嫌いになれないという経験を、私はいままでに何度もしてきたような気がする。なぜ「ハードルを下げて楽に超えるなんてけしからん。映画の粗を探してやる」とばかりに厄介な観客にいったん成り下がってしまった私は、結局それらの映画のことを好きになってしまっているのだろうか。それはハードルを下げて作者の作為を匂わせるような真似をしておきながらも、作中のどこかで「フィクションを鑑賞する私 対 作り手」という構図を忘れさせるような、魔術的な時間が、そうした優れた映画には存在するものだからである。
さて、ドライブ・マイ・カーも、冒頭からずっと「ハードルを下げて楽に越えようとしてるのでは」と思わされるような映画であった。
映画は主人公家福の妻である音の独白から始まる。この独白は異様な雰囲気をまとっており、大変な映画にあたってしまったものだと、大いに不安を感じたのだが、その独白は性交後のトランス状態のときに発せられる特殊なものであるという説明がなされる。
それならば仕方がないのかと、無理やり自分を納得させたのもつかの間。今度は西島秀俊演じる家福の演技がどうもぎこちなく、気になってくる。生活感のあまりしてこない村上春樹作品の主人公としては、こうした淡々とした語り口は正解なのかもしれない。しかし、小説と違って映画は、我々が住んでいる現実により近いものである。小説で許せても、映画では許せないものは多くある。西島秀俊の演技は許せないというほどでもないが、違和感は拭えない。そもそも夫婦そろって、この調子でどうしたことか、と思っていると、家福は演劇人であり、ひとに本読みをさせるときには、台詞に感情をのせず淡々と読むように指示を出すような人物であるという事実が提示される。「そのような人物であれば、普段の会話も淡々としていて、どこかぎこちないのは仕方ない」と素直に思えるわけではないが、一応の説明のようなものはされているわけで、この映画を楽しむためにはこうした設定を受け入れないといけないのだろうか、などと考えながらも、妻の不倫というサスペンスが物語を牽引するため、なんだかんだと映画を興味深く観ていくことができた(サスペンスというのは最も強く、人を物語に惹きつける手法のうちの一つである)。
そのように作り手の作為に気が散りながらも映画を観ていると、岡田将生が、音の寝物語の続きを語りだす例のシーンが始まる。ヤツメウナギの話自体もスリリングであるが(人が死ぬので)、それと同時に、岡田将生演じる高槻がやはり音とセックスをしていたという事実も明らかになるということで、物語の緊張度は一気に増すこととなる。この車中での長台詞のシーンこそが、『ドライブ・マイ・カー』のハイライトである。
このシーンを観ているとき、私は、岡田将生の演技がどうだとか、台詞回しがどうだとか、批評をする気にはならず、ただただ高槻の話を聴いていた*1。作り手の作為を感じるがゆえに、作り手を疑ってかかって映画を見始めるという、マイナス地点からスタートしているというのに、この『ドライブ・マイ・カー』という作品は、「鑑賞者 対 作り手」という物語外の構図の一切を忘れさせてくれる魔術的な瞬間を提供してくれた*2。
このシーンのあとは、映画を好意的に観ることができたように思う。
ただし、それでも憎らしいのは、「物語や台詞そのものの持つ強度が、作為的な演技を超えて、受け手へと届く*3」という命題が、作中の演劇指導のシーンで語られているということだ。高槻が語った物語が、その内容や語られるに至った経緯の凄まじさにより、岡田将生の演技であるとか、カメラワークやロケーションなどといった演出とは関係なしに、観客の興味を惹きつけることというのは、まさにこのことであろう。作中で示される理論が、映画そのものの中において実践されているわけだ。普通、そのような頭でっかちな試みを、フィクションの中でされると鼻白むものであるが*4、こちらとしては一旦、高槻の長台詞にやられてしまっているので、面と向かって文句を言う気にもなれない。
物語の力が、役者の(過剰でない?)演技を媒介として、大きな効果を発揮するという現象は『ドライブ・マイ・カー』のほかのシーンでも描かれていて、公園での手話による稽古のシーンなども、それに数えることができよう。あのシーンの「手話のことも演劇のことも、もっといえばチェーホフのこともよくわからないけれど、きっと作中でこの演技は、よい演技と人々に評価される/されているのだろうな」と観客に思わせる力は相当なものだとは思うが、いかんせん、我々は家福の演劇の成功/失敗には興味がないので、この劇中劇に深くのめり込むということはない。音の不倫という、作中における最重要事項にかかわる、高槻の長台詞がもっとも説得力のあるものだったと思う。
そしてそうこうしているうちに、映画の焦点はそうした演劇論めいたものや、音の不倫に関するサスペンスから、「自分の受けた傷を、なきものにはできないながらも、見つめ直し、生きていく」という、それはもうそうなんでしょうね、という回復の物語へと移り変わっていく*5。
このパートを牽引するのは三浦透子演じるみさきであるが、彼女のようなキャラクターは現実には稀なタイプかも知れないが、フィクションにおいてはよく出てくるタイプなので、我々は特に違和感を感じずに彼女を迎え入れることができる。
そのようにして映画は終わっていく。結局、ハードルを下げて楽に超えたり、作中で提示した命題を、作中で実践するという、鼻につくことをしつつも、それはそれとして、魔術的な場面を用意して、いくつかのバラバラな短編を、一つの物語として179分にまとめ上げるということを成し遂げた作品である。なんとも憎らしくも良い作品であった。
*1:もちろん、語られる内容が衝撃的なので、岡田将生がどのように適当な演技をしていても、あのシーンは名場面になった、などということを言いたいわけではない。あの長回しをこなす岡田将生の俳優としての技量は相当なものなのだろう。思えば、『天然コケッコー』での岡田将生も、主人公の大沢を見事に演じていた。しかし、10代の思春期の男子である大沢を、10代の岡田将生が演じているわけで、10代の思春期の男子にしか出すことのできないあの空気を、10代の岡田将生が出せているのは、ある意味当然なことでなのではと思えたりもする。とはいえ、他の10代の俳優と比べても、やはりかつての岡田将生のほうが演技が上手いような気もするわけで。
『ドライブ・マイ・カー』ではシチュエーション、『天然コケッコー』ではキャスティングに恵まれているため、岡田将生本人の演技力がやや掴みづらくなっているところがあるような気がするが、やはり彼は役者として技術も高いし、また、なによりも作品とのめぐり合わせが良いのだろう。
あまり関係ないが、10代男子といえば、これまた岩井俊二の『リリィ・シュシュのすべて』の市原隼人も素晴らしかった。そもそも日本の普通のドラマや映画では、10代男子の役を20代男子が無理して演じることがあまりにも多すぎるので、10代の演じる10代男子のサンプルが少なすぎるような気もする。
*2:というと少し誇張が入るかもしれなくて、実際には高槻の長台詞の最後の方では、ぜひこのシーンについて後で感想を書きたいと考え、気を散らしていた。とはいえ、これは悪いのは完全に自分であるし、そのように興奮して気を散らす瞬間も、幸福な時間ではあった。
*3:しかして、いったい、これは文学にとって、いくぶんか挑発的な言説である。物語というものは基本的に、「何が語られるか」ということと同じくらい「どのように語られるか」を重要視するものだからだ。故にこの命題は興味深い。
*4:たとえば、保坂和志の『プレーンソング』なんかもそのようなタイプであった。ひとびとの、とりとめのない日常が描かれていて、大きな事件の起こらない小説である。それはそれでよいのだが、作中に「人生や優れた文学というものは、ひとつの事件や因果に還元することはできないものである」というようなことを発言する映像作家が登場してくる。その時点でこの作品自体が「人生や優れた文学というものは、ひとつの事件や因果に還元することはできないものである」という命題を証明するために書かれた小説に思えてきてしまい、まさにこの小説が「人生や優れた(略)ものである」というひとつの命題に還元することのできるひどく単純なものに堕ちてしまうような気がして、なんともがっかりした記憶がある。もっとも、この発言を除けば、小説内で語られる個々のエピソードは本当にとりとめがなく、それぞれ面白かったりするのだが(特に競馬必勝法のようなものが延々と語られるところなどは特に良かったように思う)。
*5:映画のトーンが何回か変わるのは、この映画がいくつかの短編を組み合わせて作られたものであるところから来ているのであろう。
鎌倉に鶴がたくさんおりました
「鎌倉に鶴がたくさんおりました」という俳句がある。
読み手はオットー・ラポルテ(1902年-1971年)。寺田寅彦(1878年-1935年)や岡潔(1901年-1978年)と親交のあったドイツ生まれの物理学者である。
彼らが初めて出会ったのはおそらく1928年のことで*1、ラポルテは理研*2に招聘されて、寺田寅彦の研究室に入ることとなった。
未だ若き岡潔とラポルテは、年も近いということもあり、親交を深めたのであろう。岡潔らはラポルテに、寄ってたかって俳句を教えこんだということである。そして鎌倉旅行から帰ってきたラポルテが読んだのが、上に挙げた句ということらしい。
岡潔は
これではどうにも仕方がない。まるで俳句にならない。そう思うでしょう。これは欧米語ですね。
ということで、ラポルテの俳句をけんもほろろに酷評をしている。
なるほどちゃんと五、七、五の音数律には適合している。いわれを聞いてみると、「昔頼朝時代などには鎌倉へんに鶴がたくさんにいて、それに関連した史実などもあったが今日ではもう鶴などは一羽も見られなくなって、世の中が変わってしまった」という感慨を十七字にしたのだそうである。それを私に伝えた日本の理学者は世にも滑稽なる一笑話として、それを伝えたのである。
なるほどおかしいことはおかしいが、しかし、この話は「俳句とは何か」という根本的な問題を考える場合に一つの参考資料として役立つものであろうと思われる。すなわち、これが俳句になっていないとすれば、何ゆえにそれが俳句になっていないかという質問に対するわれわれの説明が要求されるのである。この説明はそうそう簡単にはできないであろう。
以上の笑話はまた一方で大多数の外国人がわが俳句というものをどういうふうに、どの程度に理解しているかということを研究する場合に一つの資料となるものであろうと思われる。
寺田寅彦自身は巧妙に、この句への直截的な評価を避けているが、それでも、この句を俳句としては認められない、という世間一般の雰囲気を伝えている。
しかし、この句は本当に「まずい俳句」なのだろうか。
私はそうは思わない。百歩譲ってこれが俳句のルールを逸脱した「俳句ならざるもの」だったとしても、決して「まずい言語芸術」ではないように思われる。私がこの句を知ったのは、もう十数年前になるが、良い俳句とはなにかということを考えるたびに、未だに第一に考える句であり、そのインパクトは十分である。また、寺田寅彦と岡潔の両者が、それぞれ別の機会にこの句について言及しているということも、この句が少なくとも「普通の」まずい俳句ではないことの証明であると言えるかもしれない。
改めて句自体を見てみよう。
「鎌倉に鶴がたくさんおりました」
とある。いわゆる「ツッコミどころ」のようなものは、たくさんあるだろうが、まず目につくのは「おりました」の部分ではなかろうか。17文字しか使うことのできない俳句において、物事のありやなしやを問う存在動詞(ある・いるなど)を使うことはほとんどない。しかし、この句では、「おる」という存在動詞を、ご丁寧に「おりました」と敬体にまで変えて、貴重な5文字をまるまる使っている。俳句の先生ならこの5文字をぜんぶバツで消して、なにか気の利いた言葉を代わりに挿入するのではなかろうか。岡潔はこの句を「欧米語」と評しているが、やはりそれは欧米語において動詞の省略が稀であることから来ているのであろう。
しかし、この句において最も良いのがこの「おりました」である。「おりました」という存在動詞の過去形をわざわざ使うことにより「かつて存在していたこと」や「現在は存在していないこと」が焦点化されるのである。この俳句において第一に重要なのは、「鶴がいたのが鎌倉であったこと」でも「存在していた鳥の種類が鶴であったこと」でも「鶴がたくさんいたこと」でもない。あくまでも「なにものかが、かつて存在していて、現在は存在していないということ」こそがこの句の達意眼目なのである。
また敬体にすることにより「報告者である詠み手と、それを聞く被報告者が、この句のすぐ後ろに存在すること」も伝わってくる。そうすると何がおきるか。この俳句が詠まれている現在時と、鶴がかつていた過去との時間的な隔たりもまた強調されるのである*3。
さらに「おりました」だけでなく、脇を固める「鎌倉」や「鶴」も悪くない。
遠い過去への眼差しは、古都鎌倉という場と共鳴し、「夏草や兵どもが夢の跡」の句などを思い起こさせるところがある。また、「鶴」も「鶴岡八幡宮」を意識させ、句全体の統一性を保つ働きがある*4。
「たくさん」はどうなのだろうか。私は、この句を、中学生の時分に、おそらく寺田寅彦の「俳諧瑣談」から知ったのだが、実のところ、「鎌倉に鶴が二、三羽おりました」と長らく覚え違いをしていた。「たくさん」より「二、三羽」のほうが、靄に浮かんだ鶴を幻視しているような寂寥感があり、いいような気もしているし、「たくさん」だと俳句の真髄の一つ(?)であろう具体性が少しボケるような気もする。なので、昔聞き知った鶴の俳句にもう一度あたりたいと思い、「俳諧瑣談」を再読したとき、「二、三羽」ではなくて「たくさん」だったことに少しがっかりしたのだが、それでも名句は名句だなと思い直したのがこのブログを書いたきっかけである。
ということで、ラポルテによる俳句の紹介であったが、ラポルテ自身の「おりました」という語用に深い意味はなく、それこそ欧米語話者としての癖から自然に出てきたものかも知れない。それでも、それがある一定の効果を発揮していることは認めなくてはならないだろう。また、寺田寅彦と岡潔がこの句に注目していた事実こそが、この句の面白さを示す証拠である、というようなことを上に書いたが、おそらくそれは本当にそうで、「外国人が詠んだへんてこな俳句」みたいなものは、この世の中にもっと沢山あるだろうが、きっとこの鶴の句以上に良いものは中々見つからないように思うのである。
追伸:ちなみに、丸谷才一の『横しぐれ』もまた、良い俳句について考えるときに、いつも思い出す作品であるのだが、こちらでは「おりました」の冗長さとは真逆のものを追求した俳句について語られている。
『横しぐれ』(1974)/丸谷才一:俳諧史の精髄にも迫るようなスリリングな作品だった。アームチェアディテクティブにしては、捜査の足取りがあまりにも覚束ないのが、作劇上の瑕疵かなと思ったが、解説の池内紀はそれを「信用できない語り手」の問題としていた。
— デュー (@mount_dew_clear) September 14, 2016
池内紀の海千山千感よ。。
参考文献:
Otto Laporte | Biographical Memoirs: Volume 50 |The National Academies Press
*1:伝記によれば、ラポルテは1928年・1933年・1937年に日本に来ているということらしい。岡潔は当時のラポルテのことを、30前と言っているので、俳句を詠んだりしたのは1928年のことではなかろうか。
*2:ラポルテの伝記によれば京都大学に招かれたとある。寺田寅彦の研究室は東京帝国大学にあったように思われるが、どういうことだろうか。寺田寅彦のもとにも、京大にも行ったということだろうか。
*3:一応、現在鎌倉に鶴はいない、というコンテクストに立って、この句を解釈しているが、仮に現在も鎌倉に鶴がいて、それを観た報告者が旅行から帰り、その話をしているという、小学生の感想文的シチュエーションだったとしても、それはそれで味わい深さは残る。
*4:そもそも鶴岡八幡宮がなぜ鶴岡という名前なのかは調べてもわからなかった。石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧進したことから鶴岡八幡宮という名前になったらしいが、そもそもの由比郷鶴岡の地名の由来は調べることが、できていない。そしてそもそも、鎌倉に本当にかつて鶴がいたのかも私は知らないし、今現在鎌倉に鶴がいないのかも私は知らない。
桃色と群青 ~その①:ヴェネツィア派絵画・フェルメール・ゴーギャン・荒木飛呂彦
0.はじめに
最近、世の中では緑と黒の市松模様が、今までにないほどに意味を持ってしまって、特別な文脈を持たせずに、緑黒の市松模様を使うことは、不可能となってしまった。仮に表現者が完全にフラットに緑黒の市松模様を用いたくとも、受容者はそう観てはくれまい。
また、トンボ鉛筆の消しゴムの配色や、セブンイレブンのロゴなどは「色彩のみからなる商標」として法で守られている。色の組み合わせというものは、強く、或いは、仄かに人の意識を捉え、時として非常に大きな人々の関心事となる。
私にも数年来ずっと気になっている配色がある。それは桃色と群青を組み合わせたものだ。色相でいえば、補色というほど離れていないし、類似色というほど近くもない。下に示したような感じの色の組み合わせだ(下の組み合わせは群青というには少しライトかもしれないが)。人によってこの配色から受ける印象はいろいろと違うだろう。
私がこうしたピンクとブルーを見て最初に思い起こすのは、この配色を気にする、そもそものきっかけとなった、ヴェネツィア派の絵画の数々だ。
1.ヴェネツィア派絵画
ヴェネツィア派絵画とは、基本的には15世紀後半から16世紀にかけて、ヴェネツィアにおいて活躍した流派のことをいい、主な画家としてティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼなどが挙げられる。「線のフィレンツェ派」に比して、「色彩のヴェネツィア派」と呼ばれることもあるヴェネツィア派絵画であるが、ヴェネツィアの湿気の多さ故、フレスコが使えず、それ故に油絵の技法が発達し、その色彩表現に磨きがかかった、という説もあるようだ。
代表的な画家は何と言ってもティツィアーノ(ca.1488/90~1576)で、彼の絵画では、ピンクとブルーの配色が非常に効果的に用いられている。
ティツィアーノ『聖家族と羊飼い』
上の絵は聖家族(イエス・キリスト、聖母マリア、ヨセフ)と羊飼いが描かれたもので、マリアの赤い衣服、青いベールがとりわけ人目を惹く。
聖母マリアのアトリビュートは「天の真実を示す青いベール」と、「神の慈愛を示す赤い衣服」であるので、彼女がこの配色の服を着ているのは、なんら特徴的なことでもない、と言えるのだが、やはり注目するべきはその鮮やかさである。例えば下に挙げるのは、別の作家が同じ画題を描いたものであり、マリアは同じく赤と青の服を纏っているが、ティツィアーノのものほど、色彩が前景化されていない。
(左):オルトラーノ(ca.1480~1525、フェラーラ派)
(右):リドルフォ・ギルランダイオ(1483~1561、フィレンツェ派)
そして、下の作品はティツィアーノが描いた『バッカスとアリアドネ』である。
テセウスに見捨てられて嘆く、アリアドネのもとへ、バッカスがやってくる様子が描かれている。画面の左で、船に向かって手を伸ばしているのが、アリアドネで、彼女に向って颯爽と戦車から飛び降りているのが、バッカスである。主役のバッカスとアリアドネがそれぞれ、ピンクとブルーの服を着ている。バッカスのアトリビュートにもアリアドネのものにも、青や赤の衣服というものは特にないが、先に挙げた『聖母子と羊飼い』と同様に、ピンクとブルーの色彩効果が特に目を惹く作品である。ティツィアーノにとって、ピンクとブルーという色が単なる聖母マリアのアトリビュートではなく、色彩の構成において、重要な組み合わせであったということがわかる。
上のティントレット(1518-1594)による『天の川の起源』においても、ヘラクレスが特徴的なピンクと青の布を身にまとっている。ヴェネツィア派の絵画は、豊かな色彩表現によって特徴づけられているといわれているが、その中でもやはり、特にピンクとブルーの鮮やかな組み合わせによって、その名声をより確固たるものにしているのではないか、と私は思うのである。*1
そもそも、ヴェネツィア派の画家たちが、色彩豊かな絵画を完成させることができたのは、画材の発達があってのことだ。ラピスラズリ鉱石を原料としたウルトラマリンは文字通り「海を越えて」アフガニスタンからヴェネツィアへと輸入されてきた。
How Titian Depicted Blue Draperies. Ultramarine in Venetian Painting
How Titian Depicted Red Draperies
上に挙げたサイトは、ティツィアーノが絵画に使用した青を分析したものである。ウルトラマリンは非常に高価であったため、基本的にはアズライトや鉛白などの下塗りの上に重ねて塗られているらしいが、『バッカスとアリアドネ』などでは、絵の発注者のフェラーラ公爵の期待に応えるため、ふんだんにウルトラマリンが使われているという。
また、彼が使う赤にはヴァーミリオンやレーキ顔料など、これまた高価な絵の具が使われていたらしい。
ヴェネツィア派における色彩の革新性は画家個人のセンスだけではなく、新しい絵の具の登場などといった、時代の大きなうねりによっても達成されたのだ、ということもつく加えておかねばなるまい。
2.フェルメール
ちなみにウルトラマリン(ラピスラズリ)というと、フェルメール(1632?-1675?)もまた、その有名な使い手ではあるが、彼の関心はピンクとブルーにはないようで、作品の多くは青と黄によって構成されている。
左から「真珠の耳飾りの少女」、「牛乳を注ぐ女」、「恋文」
「恋文」でリュートを持つ女性が着ている黄色いジャケット*2は、「手紙を描く女」「真珠の首飾りの女」や「ギターを弾く女」においても、まったく同じように描かれている。フェルメールの財産目録には「黄色のサテンのジャケット、白の毛皮縁付き」という記述があり、実際に彼がこのコートを所有していたであろうことがわかる。フェルメールがたまたま、この黄色いジャケットを持っていたから、作品に黄色が多く取り入れられることになったのか、はたまた、自分の作品には黄色と青が必要だと感じて、モデルに黄色のガウンを着せていたたのかは、わからないが、とにかく、画家というものには自家薬籠中の配色があることがわかる。
3.荒木飛呂彦
そして、現代においても、ピンクとブルーの組み合わせを、自作において特別なものとしていると公言している作家がいる。ジョジョシリーズの荒木飛呂彦である。
確か、『岸部露伴ルーブルへ行く』の中のインタビューであったと思うのだが、荒木飛呂彦は「ピンクとブルーは自分にとって特別な色の組みあわせなので、ここぞというときのためにとっておいて、濫用しないようにしている」というようなことを言っていたように思う。
また、ピンクとブルーについては、他のところでも公言していて、NHK Eテレの『日曜美術館』、モーリス・ドニ回でも同じようなことを言っている。
荒木「これはですね、あの、桜が青空にあるような組み合わせなんですね。水色っていうか、ちょっとグリーンがかった…、だから、桜と空の組み合わせで『無敵』なんですね。すごく困った時にこの組み合わせをやるんですよ。ぜったい間違いないんです、水色とピンクって。なんかアイデアが無いときはこれに頼ってるっていう…、ちょっと今、あんまり言っちゃいけない事を…(苦笑)」
直接の引用は「@JOJO JOJOの奇妙なニュース」2011年10月6日記事より、またこちらの記事にも荒木飛呂彦のピンクとブルーによる作例が多数の掲載されている
ただ、ここ最近の荒木飛呂彦のピンクとブルーへの頼り方は、もはや、「ここぞというときの秘技」といった域を超えており、もはや「ピンクとブルーこそ荒木飛呂彦だ」として自らのブランディングの一環として使うところまで、振り切れているのではないかとも思われる。現時点(2020年12月)における彼の最新作、『ジョジョリオン』25巻の表紙も、見事にピンクとブルーである。
荒木飛呂彦は、創作者としては、手の内を景気よく明かしてくれるタイプなようで、そのピンクとブルーの影響元についてもメディアでたびたび語っている。
まずは上でも触れたドニ。そしてゴーギャンについても以下のように触れている。
確かゴーギャンの絵に、空が赤くあるいは白く描かれていたりするのを、子どものときから不思議だと思っていたんですが、そうか、「画家はこころの中を絵にするんだな」って思いました。
『青波~ブルー・ヴァーグ~』(発行:国土交通省)Vol.07/2004 Winter号より(現在、公式ではリンクが切れているが、Waybackmaschineのアーカイブより閲覧することができる。)
ゴーギャンというと、ゴッホとの共同生活の破綻や、『月と六ペンス』の影響もあって、結構な人格破綻者であるようなイメージがあるが(実際そうかもしれないが)、画壇の先輩としては、なかなか影響力があったようだ。1888年、ゴーギャンがまだブルターニュにいた頃、画家のポール・セリュジエが彼のもとを訪れ、共に写生をすることとなる。その時、ゴーギャンは、心象の赴くままに、美しい色を大胆に載せて森を描くよう、セリュジエに助言する。そうした言葉に感銘を受けたセリュジエはパリへ帰り、仲間のドニらとさっそくナビ派を立ち上げる。「ナビ」とはヘブライ語で預言者の意であり、セリュジエやドニらが預言者であるのならば、神というのはゴーギャンのことを指しているのだろう。後輩から神格化されている様子は、確かに『月と六ペンス』の感じなんかも思わせるのだが、ともかく、ゴーギャン→ドニ→荒木飛呂彦というラインがあるということがわかる。
ゴーギャン、ドニ両者ともに、ピンクとブルーを印象的に使った作品は、上に挙げたものの他、数多くあるが、それらが、ヴェネツィア派絵画の影響を直接受けているかどうかはわからない。しかし、それでも写実を超え、色彩そのものを前景化させるという点(しかもそれがピンクやブルーである点)においては、なんらかの影響関係があるのではなかろうか。ドニの『バルコニーの子供たち、ヴェネツィアにて』がそのタイトル通り、ヴェネツィアにおいて描かれているということにも、何らかの意味を感じてしまう。
また、荒木飛呂彦もイタリア芸術に通暁している人なので、その色遣いにもヴェネツィア派絵画の影響があるように思われる。
ただ、このあたりの「ヴェネツィア派絵画」と「ゴーギャン・ナビ派・荒木飛呂彦ライン」の関係については、調べが足りないので、今後も注目して調べてゆきたいと思う。
4.おわりに
ということで、いろいろ書いてきたが、この記事を書いた理由のうちの一つに、ヴェネツィア派絵画におけるピンクとブルーについての言説が、ネットの日本語環境においては、気軽にアクセスできる位置に転がっていないという現状があったからである*3。おそらく論文などを丹念に漁れば、そのような情報を見つけることできると思うのだが、こうした方面には全く明るくないので、恥ずかしながら情報の探し方すらもわからなかった。そもそも「ヴェネツィア派絵画においてはピンクとブルーの色使いが特徴的である」という私の意見は、全く的外れかもしれないし、この記事にも多くの訂正されるべき箇所があるかもしれないが、ぜひこの記事をたたき台、ハブとして、情報が集まってくればよいと思った次第である。何かご指摘等あればぜひコメントを付けていただきたい。
桃色と群青については、まだもう少し思うところがあり、現代における使用のされ方についても、書いていきたいと思っている。できるだけ早く書ききってアップロードしたいものである。
*1:ヴェネツィア派ということでティツィアーノ、ティントレットの作品を例に挙げたが、一口にヴェネツィア派といっても、もちろん各個人、時期により、作風は異なる。
例えばティントレットはティツィアーノと比べると基本的に画面が暗く、くすんでいる(この辺のことは絵画の保存状態や劣化具合とも関係あるかもしれないが)。上に挙げた『天の川の起源』はティントレットのカタログの中でもとりわけ鮮やかな作品なので、「ヴェネツィア派といえばピンクとブルー」という自説のために少し我田引水をしてしまった感は少しあるが、やはりそんなティントレットの作品にあっても下の作品のように、ピンクとブルーを色調の主体とした作品はいくつもある。
左からティントレット『聖マルコの運搬』、『聖ゲオルギウスと竜』
また、ヴェロネーゼも、確かにピンクとブルーの組み合わせを効果的に使うことはあるが(『キューピッドによって結ばれるマルスとヴィーナス』など)、上の二人と比べてももう少し多彩な色彩表現をしている。
彼の代表作のうちの一つ、『カナの婚礼』では人々が様々な色の服を纏っており、何か特定の色を目立たせようという意図は感じられず、むしろ、画面全体で統一的な色彩イメージを作ることに成功している。
Wikipediaの受け売りだが、20世紀のイギリス人芸術家ローレンス・ゴヴィングはヴェロネーゼについて、次のような言葉を残しているようだ。
評論家テオフィル・ゴーティエが1860年に書いたように、フランス人はヴェロネーゼが西洋美術史上でもっとも色彩を重視する画家だと考えている。同じく色彩感覚に定評のあるティツィアーノ、ルーベンス、レンブラントよりも遙かに上だとしており、これはヴェロネーゼが伝統的な明暗法の技法のままに自然な立体表現を確立した画家であると見なされているためである。19世紀のフランス人画家ドラクロワは、ヴェロネーゼが現実にはあり得ない強引な明暗方を用いることなく、暗部の色合いの移り変わりを表現していると評価している。/ヴェロネーゼのこの革新は筆舌に尽くしがたいものである。ヴェロネーゼの作品に見られる調和のとれた美しい屋外風景は、19世紀の画家たちにとっても手本となり着想の源となった。ヴェロネーゼが近現代絵画を確立したと行っても過言ではない。しかしながらヴェロネーゼの作風が印象派の芸術家たちが考えているように純粋に自然主義的なものなのか、あるいはより繊細で巧妙に計算された想像上の産物なのかについては、それぞれの時代によって議論の余地がある。
ヴェロネーゼの色彩表現がどれほど「自然」であったのかという点はゴヴィングも指摘しているとおり、よくわからないとしても、少なくとも、彼が良い意味でも悪い意味でも「ピンクとブルー頼み」の作家ではないことはわかるような気がする。
とまれ、なんといっても、ピンクとブルーという配色のイメージがあるのは、何といってもティツィアーノその人であろう。もしもヴェネツィア派絵画の特徴の一つに「鮮やかなピンクとブルー」という項目があるとするのならば、やはりそこでもティツィアーノが第一席となるのではないか。ティツィアーノが、しばしばヴェネツィア派絵画を代表する画家とされるのも、その辺りに理由があるのではないか、私は思うのである。
*2:私はこの黄色いガウンについているのが、白貂の縁飾りだと思っていたのだが、以下の論文によると、このガウンの縁が白貂のものである可能性は低く、「ネコ、ウサギ、リスなどの白い毛皮縁のついた妻のジャケットをモデルにし、黒い斑点を描き足して6点の中では最も早い≪真珠の首飾り≫を制作したと考えられる」という見解が示されている。
三友 晶子「フェルメールの斑点入り毛皮をめぐる「アーミン」言説の再考 絵画における服飾表現の現実性」日本家政学会誌、2005 年 56 巻 9 号 p. 617-626。
*3:とはいえ、googleで「ヴェネツィア派絵画 ピンク ブルー」と検索すると、2017年に東京都美術館で開催された「ティツィアーノとヴェネツィア派展」の記事がヒットする。それによるとこの展覧会の前売り券にはパスケースが付属しており、その色をピンク・ブルー・ブラウンの中から選ぶことができるらしい。
やはりティツィアーノといえば、ピンクとブルーという認識があるからこうした色の選択になっているのではなかろうか。ちなみに、ブラウンもラインナップの一つとして挙げられているが、海外では、ティツィアーノがよく描いているようなオレンジブラウンの髪のことを「titian hair」というそうだ。なるほど、ピンクとブルーだけでなく、ブラウンもまた彼の色らしい。
※wikipedia「titian hair」の記事より
引越し
以下のブログから引越しをして、こちらにやってきました。
引越しの理由はひとえに、こちらでは脚注機能が使えるという点です。
様々な記事をアップしていけたらと思います。