鎌倉に鶴がたくさんおりました
「鎌倉に鶴がたくさんおりました」という俳句がある。
読み手はオットー・ラポルテ(1902年-1971年)。寺田寅彦(1878年-1935年)や岡潔(1901年-1978年)と親交のあったドイツ生まれの物理学者である。
彼らが初めて出会ったのはおそらく1928年のことで*1、ラポルテは理研*2に招聘されて、寺田寅彦の研究室に入ることとなった。
未だ若き岡潔とラポルテは、年も近いということもあり、親交を深めたのであろう。岡潔らはラポルテに、寄ってたかって俳句を教えこんだということである。そして鎌倉旅行から帰ってきたラポルテが読んだのが、上に挙げた句ということらしい。
岡潔は
これではどうにも仕方がない。まるで俳句にならない。そう思うでしょう。これは欧米語ですね。
ということで、ラポルテの俳句をけんもほろろに酷評をしている。
なるほどちゃんと五、七、五の音数律には適合している。いわれを聞いてみると、「昔頼朝時代などには鎌倉へんに鶴がたくさんにいて、それに関連した史実などもあったが今日ではもう鶴などは一羽も見られなくなって、世の中が変わってしまった」という感慨を十七字にしたのだそうである。それを私に伝えた日本の理学者は世にも滑稽なる一笑話として、それを伝えたのである。
なるほどおかしいことはおかしいが、しかし、この話は「俳句とは何か」という根本的な問題を考える場合に一つの参考資料として役立つものであろうと思われる。すなわち、これが俳句になっていないとすれば、何ゆえにそれが俳句になっていないかという質問に対するわれわれの説明が要求されるのである。この説明はそうそう簡単にはできないであろう。
以上の笑話はまた一方で大多数の外国人がわが俳句というものをどういうふうに、どの程度に理解しているかということを研究する場合に一つの資料となるものであろうと思われる。
寺田寅彦自身は巧妙に、この句への直截的な評価を避けているが、それでも、この句を俳句としては認められない、という世間一般の雰囲気を伝えている。
しかし、この句は本当に「まずい俳句」なのだろうか。
私はそうは思わない。百歩譲ってこれが俳句のルールを逸脱した「俳句ならざるもの」だったとしても、決して「まずい言語芸術」ではないように思われる。私がこの句を知ったのは、もう十数年前になるが、良い俳句とはなにかということを考えるたびに、未だに第一に考える句であり、そのインパクトは十分である。また、寺田寅彦と岡潔の両者が、それぞれ別の機会にこの句について言及しているということも、この句が少なくとも「普通の」まずい俳句ではないことの証明であると言えるかもしれない。
改めて句自体を見てみよう。
「鎌倉に鶴がたくさんおりました」
とある。いわゆる「ツッコミどころ」のようなものは、たくさんあるだろうが、まず目につくのは「おりました」の部分ではなかろうか。17文字しか使うことのできない俳句において、物事のありやなしやを問う存在動詞(ある・いるなど)を使うことはほとんどない。しかし、この句では、「おる」という存在動詞を、ご丁寧に「おりました」と敬体にまで変えて、貴重な5文字をまるまる使っている。俳句の先生ならこの5文字をぜんぶバツで消して、なにか気の利いた言葉を代わりに挿入するのではなかろうか。岡潔はこの句を「欧米語」と評しているが、やはりそれは欧米語において動詞の省略が稀であることから来ているのであろう。
しかし、この句において最も良いのがこの「おりました」である。「おりました」という存在動詞の過去形をわざわざ使うことにより「かつて存在していたこと」や「現在は存在していないこと」が焦点化されるのである。この俳句において第一に重要なのは、「鶴がいたのが鎌倉であったこと」でも「存在していた鳥の種類が鶴であったこと」でも「鶴がたくさんいたこと」でもない。あくまでも「なにものかが、かつて存在していて、現在は存在していないということ」こそがこの句の達意眼目なのである。
また敬体にすることにより「報告者である詠み手と、それを聞く被報告者が、この句のすぐ後ろに存在すること」も伝わってくる。そうすると何がおきるか。この俳句が詠まれている現在時と、鶴がかつていた過去との時間的な隔たりもまた強調されるのである*3。
さらに「おりました」だけでなく、脇を固める「鎌倉」や「鶴」も悪くない。
遠い過去への眼差しは、古都鎌倉という場と共鳴し、「夏草や兵どもが夢の跡」の句などを思い起こさせるところがある。また、「鶴」も「鶴岡八幡宮」を意識させ、句全体の統一性を保つ働きがある*4。
「たくさん」はどうなのだろうか。私は、この句を、中学生の時分に、おそらく寺田寅彦の「俳諧瑣談」から知ったのだが、実のところ、「鎌倉に鶴が二、三羽おりました」と長らく覚え違いをしていた。「たくさん」より「二、三羽」のほうが、靄に浮かんだ鶴を幻視しているような寂寥感があり、いいような気もしているし、「たくさん」だと俳句の真髄の一つ(?)であろう具体性が少しボケるような気もする。なので、昔聞き知った鶴の俳句にもう一度あたりたいと思い、「俳諧瑣談」を再読したとき、「二、三羽」ではなくて「たくさん」だったことに少しがっかりしたのだが、それでも名句は名句だなと思い直したのがこのブログを書いたきっかけである。
ということで、ラポルテによる俳句の紹介であったが、ラポルテ自身の「おりました」という語用に深い意味はなく、それこそ欧米語話者としての癖から自然に出てきたものかも知れない。それでも、それがある一定の効果を発揮していることは認めなくてはならないだろう。また、寺田寅彦と岡潔がこの句に注目していた事実こそが、この句の面白さを示す証拠である、というようなことを上に書いたが、おそらくそれは本当にそうで、「外国人が詠んだへんてこな俳句」みたいなものは、この世の中にもっと沢山あるだろうが、きっとこの鶴の句以上に良いものは中々見つからないように思うのである。
追伸:ちなみに、丸谷才一の『横しぐれ』もまた、良い俳句について考えるときに、いつも思い出す作品であるのだが、こちらでは「おりました」の冗長さとは真逆のものを追求した俳句について語られている。
『横しぐれ』(1974)/丸谷才一:俳諧史の精髄にも迫るようなスリリングな作品だった。アームチェアディテクティブにしては、捜査の足取りがあまりにも覚束ないのが、作劇上の瑕疵かなと思ったが、解説の池内紀はそれを「信用できない語り手」の問題としていた。
— デュー (@mount_dew_clear) September 14, 2016
池内紀の海千山千感よ。。
参考文献:
Otto Laporte | Biographical Memoirs: Volume 50 |The National Academies Press
*1:伝記によれば、ラポルテは1928年・1933年・1937年に日本に来ているということらしい。岡潔は当時のラポルテのことを、30前と言っているので、俳句を詠んだりしたのは1928年のことではなかろうか。
*2:ラポルテの伝記によれば京都大学に招かれたとある。寺田寅彦の研究室は東京帝国大学にあったように思われるが、どういうことだろうか。寺田寅彦のもとにも、京大にも行ったということだろうか。
*3:一応、現在鎌倉に鶴はいない、というコンテクストに立って、この句を解釈しているが、仮に現在も鎌倉に鶴がいて、それを観た報告者が旅行から帰り、その話をしているという、小学生の感想文的シチュエーションだったとしても、それはそれで味わい深さは残る。
*4:そもそも鶴岡八幡宮がなぜ鶴岡という名前なのかは調べてもわからなかった。石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧進したことから鶴岡八幡宮という名前になったらしいが、そもそもの由比郷鶴岡の地名の由来は調べることが、できていない。そしてそもそも、鎌倉に本当にかつて鶴がいたのかも私は知らないし、今現在鎌倉に鶴がいないのかも私は知らない。