いったい現実を把握している者はいるだろうか

洋楽・映画などについて書いているブログです。映画・小説の感想ではもれなくネタバレを書いていますので、お気を付けください。ブログタイトルはシカゴの"Does Anybody Really Know What Time It Is?"より。

映画『ドライブ・マイ・カー』感想

 ハードルを下げる手法をとる映画というものがある。例えば岩井俊二はその名手で、ほとんどの作品でその手法を使っているのではないか?
 例えば、『リップヴァンウィンクルの花嫁』の綾野剛はどこかわざとらしい演技をしているが、それは彼が作中で実際に人を騙すために演技をしているからだと説明がつく。また、岩井俊二はホームビデオ風の映像を、作中によく挿入するが、これも「映画的でない演技・演出」を映画のなかに組み込む手法の一つである。
 このように、映画的にはアウトとみなされる演技や演出(身も蓋もない言い方をすれば、下手にみえる演技や演出)でも、作中でそうである理由を示すことで、作品のリアリティを損ねないようにする手法のことを、私は「ハードルを下げる手法」と呼んでいる。
 岩井俊二の他にも、例えば『アヒルと鴨のコインロッカー』の瑛太もおかしな演技をしてるが、こちらも彼がおかしな喋り方をしている理由が作中で明かされる(さらに、このことが物語の重要な謎解きの鍵となる)。
 こうした手法には好き嫌いがあるかもしれないが、少なくとも私は、どうも映画の作り手からおちょくられたり、騙されたりしているような気がして、この手法自体をあまり好きとはいえない。
 「いまあなたは下手な演技だと思ったでしょう。いやいや違うんです。この演出にはちゃんと理由があるんですから、そこを見落としてもらっちゃ困ります。さあ今から彼がぎこちない演技をしている理由が明かされますよ」と、監督に隣に張りついて言われているような気分にさせられるからだ。
 フィクションの鑑賞中に、作品のリアリティの多寡について考えるというのは、一般的にはあまりよい状態とはいえないだろう。作品に没頭していれば、そんなことを考える暇はないからだ。ただ単に「リアリティがあるな」とか「リアリティがないな」とか感じているだけなら、まだ巻き直しは可能かもしれない。しかし、この「ハードルを下げる手法」のようなものを使われると、映画の作り手の作為をより強く感じてしまい、「私 対 作り手」の構図を否応なく意識させられ、どうも難癖をつけるような気分で映画を観ることになってしまうのである。
 とはいえ、こうした手法を堂々と使ってくる使い手(岩井俊二など)は、何故か作家として優秀なことが多く、作品や監督自体は全く嫌いになれないという経験を、私はいままでに何度もしてきたような気がする。なぜ「ハードルを下げて楽に超えるなんてけしからん。映画の粗を探してやる」とばかりに厄介な観客にいったん成り下がってしまった私は、結局それらの映画のことを好きになってしまっているのだろうか。それはハードルを下げて作者の作為を匂わせるような真似をしておきながらも、作中のどこかで「フィクションを鑑賞する私 対 作り手」という構図を忘れさせるような、魔術的な時間が、そうした優れた映画には存在するものだからである。

 さて、ドライブ・マイ・カーも、冒頭からずっと「ハードルを下げて楽に越えようとしてるのでは」と思わされるような映画であった。
 映画は主人公家福の妻である音の独白から始まる。この独白は異様な雰囲気をまとっており、大変な映画にあたってしまったものだと、大いに不安を感じたのだが、その独白は性交後のトランス状態のときに発せられる特殊なものであるという説明がなされる。
 それならば仕方がないのかと、無理やり自分を納得させたのもつかの間。今度は西島秀俊演じる家福の演技がどうもぎこちなく、気になってくる。生活感のあまりしてこない村上春樹作品の主人公としては、こうした淡々とした語り口は正解なのかもしれない。しかし、小説と違って映画は、我々が住んでいる現実により近いものである。小説で許せても、映画では許せないものは多くある。西島秀俊の演技は許せないというほどでもないが、違和感は拭えない。そもそも夫婦そろって、この調子でどうしたことか、と思っていると、家福は演劇人であり、ひとに本読みをさせるときには、台詞に感情をのせず淡々と読むように指示を出すような人物であるという事実が提示される。「そのような人物であれば、普段の会話も淡々としていて、どこかぎこちないのは仕方ない」と素直に思えるわけではないが、一応の説明のようなものはされているわけで、この映画を楽しむためにはこうした設定を受け入れないといけないのだろうか、などと考えながらも、妻の不倫というサスペンスが物語を牽引するため、なんだかんだと映画を興味深く観ていくことができた(サスペンスというのは最も強く、人を物語に惹きつける手法のうちの一つである)。
 そのように作り手の作為に気が散りながらも映画を観ていると、岡田将生が、音の寝物語の続きを語りだす例のシーンが始まる。ヤツメウナギの話自体もスリリングであるが(人が死ぬので)、それと同時に、岡田将生演じる高槻がやはり音とセックスをしていたという事実も明らかになるということで、物語の緊張度は一気に増すこととなる。この車中での長台詞のシーンこそが、『ドライブ・マイ・カー』のハイライトである。
 このシーンを観ているとき、私は、岡田将生の演技がどうだとか、台詞回しがどうだとか、批評をする気にはならず、ただただ高槻の話を聴いていた*1。作り手の作為を感じるがゆえに、作り手を疑ってかかって映画を見始めるという、マイナス地点からスタートしているというのに、この『ドライブ・マイ・カー』という作品は、「鑑賞者 対 作り手」という物語外の構図の一切を忘れさせてくれる魔術的な瞬間を提供してくれた*2
 このシーンのあとは、映画を好意的に観ることができたように思う。
 ただし、それでも憎らしいのは、「物語や台詞そのものの持つ強度が、作為的な演技を超えて、受け手へと届く*3」という命題が、作中の演劇指導のシーンで語られているということだ。高槻が語った物語が、その内容や語られるに至った経緯の凄まじさにより、岡田将生の演技であるとか、カメラワークやロケーションなどといった演出とは関係なしに、観客の興味を惹きつけることというのは、まさにこのことであろう。作中で示される理論が、映画そのものの中において実践されているわけだ。普通、そのような頭でっかちな試みを、フィクションの中でされると鼻白むものであるが*4、こちらとしては一旦、高槻の長台詞にやられてしまっているので、面と向かって文句を言う気にもなれない。
 物語の力が、役者の(過剰でない?)演技を媒介として、大きな効果を発揮するという現象は『ドライブ・マイ・カー』のほかのシーンでも描かれていて、公園での手話による稽古のシーンなども、それに数えることができよう。あのシーンの「手話のことも演劇のことも、もっといえばチェーホフのこともよくわからないけれど、きっと作中でこの演技は、よい演技と人々に評価される/されているのだろうな」と観客に思わせる力は相当なものだとは思うが、いかんせん、我々は家福の演劇の成功/失敗には興味がないので、この劇中劇に深くのめり込むということはない。音の不倫という、作中における最重要事項にかかわる、高槻の長台詞がもっとも説得力のあるものだったと思う。
 そしてそうこうしているうちに、映画の焦点はそうした演劇論めいたものや、音の不倫に関するサスペンスから、「自分の受けた傷を、なきものにはできないながらも、見つめ直し、生きていく」という、それはもうそうなんでしょうね、という回復の物語へと移り変わっていく*5
 このパートを牽引するのは三浦透子演じるみさきであるが、彼女のようなキャラクターは現実には稀なタイプかも知れないが、フィクションにおいてはよく出てくるタイプなので、我々は特に違和感を感じずに彼女を迎え入れることができる。
 そのようにして映画は終わっていく。結局、ハードルを下げて楽に超えたり、作中で提示した命題を、作中で実践するという、鼻につくことをしつつも、それはそれとして、魔術的な場面を用意して、いくつかのバラバラな短編を、一つの物語として179分にまとめ上げるということを成し遂げた作品である。なんとも憎らしくも良い作品であった。

*1:もちろん、語られる内容が衝撃的なので、岡田将生がどのように適当な演技をしていても、あのシーンは名場面になった、などということを言いたいわけではない。あの長回しをこなす岡田将生の俳優としての技量は相当なものなのだろう。思えば、『天然コケッコー』での岡田将生も、主人公の大沢を見事に演じていた。しかし、10代の思春期の男子である大沢を、10代の岡田将生が演じているわけで、10代の思春期の男子にしか出すことのできないあの空気を、10代の岡田将生が出せているのは、ある意味当然なことでなのではと思えたりもする。とはいえ、他の10代の俳優と比べても、やはりかつての岡田将生のほうが演技が上手いような気もするわけで。

 『ドライブ・マイ・カー』ではシチュエーション、『天然コケッコー』ではキャスティングに恵まれているため、岡田将生本人の演技力がやや掴みづらくなっているところがあるような気がするが、やはり彼は役者として技術も高いし、また、なによりも作品とのめぐり合わせが良いのだろう。

 あまり関係ないが、10代男子といえば、これまた岩井俊二の『リリィ・シュシュのすべて』の市原隼人も素晴らしかった。そもそも日本の普通のドラマや映画では、10代男子の役を20代男子が無理して演じることがあまりにも多すぎるので、10代の演じる10代男子のサンプルが少なすぎるような気もする。

*2:というと少し誇張が入るかもしれなくて、実際には高槻の長台詞の最後の方では、ぜひこのシーンについて後で感想を書きたいと考え、気を散らしていた。とはいえ、これは悪いのは完全に自分であるし、そのように興奮して気を散らす瞬間も、幸福な時間ではあった。

*3:しかして、いったい、これは文学にとって、いくぶんか挑発的な言説である。物語というものは基本的に、「何が語られるか」ということと同じくらい「どのように語られるか」を重要視するものだからだ。故にこの命題は興味深い。

*4:たとえば、保坂和志の『プレーンソング』なんかもそのようなタイプであった。ひとびとの、とりとめのない日常が描かれていて、大きな事件の起こらない小説である。それはそれでよいのだが、作中に「人生や優れた文学というものは、ひとつの事件や因果に還元することはできないものである」というようなことを発言する映像作家が登場してくる。その時点でこの作品自体が「人生や優れた文学というものは、ひとつの事件や因果に還元することはできないものである」という命題を証明するために書かれた小説に思えてきてしまい、まさにこの小説が「人生や優れた(略)ものである」というひとつの命題に還元することのできるひどく単純なものに堕ちてしまうような気がして、なんともがっかりした記憶がある。もっとも、この発言を除けば、小説内で語られる個々のエピソードは本当にとりとめがなく、それぞれ面白かったりするのだが(特に競馬必勝法のようなものが延々と語られるところなどは特に良かったように思う)。

*5:映画のトーンが何回か変わるのは、この映画がいくつかの短編を組み合わせて作られたものであるところから来ているのであろう。